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ハッピーバースデー:画像/壁紙[小説]


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2010/08/31 とても良い(+2 pnt) by asuka
「おまえ、生まれてこなきゃよかったな。」

11歳の雨の誕生日、少女に投げられる言葉で物語は始まる。

生まれ、今ここにいることを祝福する誕生日に投げられた、今ここにいることへの全否定の言葉。

雨の誕生日、少女の存在を全否定する兄に投げられた言葉、母に投げられた言葉で、少女の、たすけて、という声なき声は、雨に溶けて消える。

雨に溶けて消える声で、少女は「生まれてこなければよかった」とささやく。

少女の存在は雨に溶けて消えていく。

誰にも声が届かない雨の降る闇の中で、少女は言葉を奪われ、声を奪われ、今ここにいる自分の確かさをゆっくりと溶かされる。



家庭という場所は、人間が始まる場所、 人間の基盤を作る場所だ。

その場所から全否定された主人公の少女、藤原あすかは、自分が自分であることを発する声を喪い、心が死んでいく。

自分を否定する声に存在が掻き消され、心に掻き傷をつけられる痛みを、声が出る場所、自らの喉に爪を立て、

痣ができて手術するほどの自傷の痛みで打ち消そうとする。

誕生日の雨の日、家族にもたらされた言葉は、今ここにいることを祝福するのと反対の、自己否定に向かわせる。

児童虐待に分類されている、身体的虐待、性的虐待、ネグレクト、心理的虐待のうち、ここで描かれていることは心理的虐待。

その分類に意味があるのかわからないけど、心理虐待にならない虐待なんてあるのだろうかと思う。

心を傷つけない虐待などあるのだろうか。

子供を育てるとは、給餌するだけという意味では子供の家畜化にすぎない。

子供を育てるとは未来の道をできるだけ真っ直ぐ強く敷くこと。

立派な政府や概念などより博愛などより、普通に普通の親の情愛を子供に傾けられれば世界には何の宗教も哲学も要らないと思う。

人が一生を費やして生きる努力は、幸せになることと愛されることを求めて費やされるけれど、

それを当たり前のように与えられるのは親から子への普通の愛情なのだと思う。

ただ当たり前のように与えられる愛情という理想的なフィクションが多く出回っているだけで、

そんなものは奇跡に等しいことが人の不幸の根源かもしれない。

「当たり前」に与えられるものであるはずの親の愛情と声を喪った少女は、自分の存在の根本を揺るがされ、声なき声で問う。

幸せって、なんですか?

愛されるって、どういうことですか?

愛されるには、どうしたらいいの?

当たり前にあるものであるかのような言葉の意味が不在する世界に取り巻かれた子供は問う。

子供の透き通った心は世界の歪みを純粋な水のように映し、本来あるがままだった心の輝きを失っていく。

この本で否定された誕生日を迎えたのは主人公のあすかひとりではない、居場所のない心の声を自らの闇に抱えたすべての人。

伝え繋げるものであるはずの声は、関係を断ち切られ閉じ込められ、存在意義を奪われ、

自己を否定し、他者を否定し、人を信じることをやめ、自分を閉ざしていく。

誕生日に母親に声を奪われたあすかは祖父母のもとで、あすかが生まれた日に植えられたあんずの木が祖父母に見守られながら育っているのを見て、

自分の生が肯定されていることを知ると同時に、身の回りの様々な命の声に心が開かれていく。

死者の声、母親の閉ざされた記憶の声、自身の閉ざされた心の声、「ぐるぐると輪になって生かしあっている」自然の声、

木の声、虫の声、花の声、風の声、大地の声、祖父母の心の温もりに似た夕日の温もりに、凍てついた心を溶かされたとき、

あすかが初めて発した声は、「ありがとう」。

凍てついた水車のような心は、祖父母の心のぬくもりに溶かされて再び廻りだす。

心を閉じ込められれば、心は凍てつき時間は静止する。

心が閉じれば、声を聞くことも、声を発することも、声を受け取ることもできない。

鍵のかかった心の扉が開かれ、心のダムが解き放たれ、心の闇に光と水が満ちるとき、死から生命が生まれる。



この本には多くの声が描かれる。

声を奪われた少女の声、声を奪った母親の声、親に認められる優越感だけが存在意義の優等生の子供の声、

子供の声が届かない教師の声、イジメる声、イジメられる声、死に向き合う声、死を見送る声、植物や空や大地の声まで。

言葉では括れない声、誰の心にも行き着かない、居場所のない心の声が漂い、行き交う。

青木和雄氏は心理学者、カウンセラーという肩書きを超えた、千里眼のように心の声を聞き取る術に長けた人だと思う。

多くの閉ざされた扉の向こうの心の声に耳を澄ませてきた著者は、声を失った少女の闇に閉じ込められた声に手を伸ばし、

時間を止め、生きることを止めていた、凍りついた声を解き放つ。

世界を変えるため、人を救うために必要なものは、世界に満ちる言葉にならない言葉、声にならない声に耳を澄ませ、聞き取り、

暗がりに閉じ込められた心の声を、光の下に自由に解き放つ心。

虐待、イジメ、障害者、人の死、教育現場の綻び、教育の在り方、現実社会の問題を一冊の児童書に詰め込み、

ファンタジーにしかない勇気と希望の物語のキレイなまとめかたをしているのだけど、

それは青木さんが「傷ついた子供のリアル」を誰よりも見つめているからこそ、作品の中で子供への救いを描くことで、

青木さんは子供に、今の傷つき損われた世界に世界を担う大人として作品と言葉で責任を負っているのだと思う。

子供を救いうる世界とはどういうものか、子供を救いうる大人とはどういうものかを描き出すことで、

子供を救うことが大人を救うことであり、子供を救うことが世界を救う道筋を描き出す。

心の闇と傷から子供を救い出し、一人の人間を救い出し、一つの世界を救い出す様は、ファンタジーの奇跡であり、手に汗握る冒険物語でもある。

人の心とは、如何に広大な闇と光のファンタジーと、リアルに死と隣り合わせのぎりぎりの冒険世界を航行しているものかと思う。

最新刊の単行本の「ハッピーバースデー」には、児童書には出てこなかったあすかの母親の静代の同僚、

「星なつき」という登場人物が出てきて、それを見て青木さんの子供の心に注ぐ鋭い眼差しの感性に唸った。

「星なつき」は、傷ついた子供のあすかを大人にして、血縁の縛りから自由にして、客観的に第三者的に母親に対等に向き合わせ、

子供の立場では出せない言葉や感情を子供のあすかの代わりに自由に言わせた、「あすかの外にいるあすか」として描き出したキャラだ。

その後のあすかの結論、「もうママをママと呼ばない。わたしをママの目で見ないで。」に繋がる。

家庭という世界にはびこるミクロな全体主義社会に、青木和雄さんは物語的想像力でひとり闘いを挑んでいると思う。

心の声を閉じこめることで人が人にできる破壊、声と声を響かせることで起こる命の再生。

植物をゆっくりと見守り育てるスピードで、心の闇の長い旅の果てに新しい産声を上げたあすかに、作者は「お帰り」と「HAPPY BIRTHDAY」を歌う。

子供の心の声に耳を塞ぐどころか、声もろとも命まで抹殺する親がいる今、望まれない誕生日、祝福されなかった誕生日を迎える人々、

深く永い心の闇の旅路の中にいる人に、作者は世界中に響くような声で、「HAPPY BIRTHDAY」を歌いたいのだろう。

1997年に初出版していらい版を重ねる児童書、単行本、アニメ、ドラマにもなったという(未見ですが)この作品に込められた、

「ここにいていいんだよ」「君はここにいるよ」「僕はここにいるよ」の「HAPPY BIRTHDAY」の歌声を求める人、

そして、歌われなかった人が、今この世界には大勢いるのだろうと思う。



「虐待」ほどマニュアルがないことが問題を難しくしているのかもしれない。

人生経験で培われた心は、心理学や精神分析などのマニュアルにはくくれない。

精神分析の父というフロイトからして、子供と親の間に起きる性的葛藤などを問題にしていて、

西洋の精神分析というのを普遍的に人間に適用していいものかとも思う。

実際の虐待の様や、その後の人間に及ぼす影響は何十年という時間の見地から人の心のあり方を見なければならないので、

簡単に一冊の本にまとめられるものではない。

子供が成長して大人になって自分の人生を物語として総括できるときまで、親が子供に犯す犯罪は隠蔽され、

そうして声をあげても、「過去のこと」「運が悪かったこと」「親のせいにするな」などと社会的に封殺される。

子供は親の所有物のひとつ、親の延長の一部分という社会通念自体が子供を虐待する。

子供に個人の人権を見る虐待の問題意識はアメリカ経由できたけれど、自主独立した人間としての責任意識はないままの個人主義だけがはびこる。

アメリカでも50年ほど前までは、児童虐待の問題は、宗教問題と同様の軌道を描いてタブー視されてきたという。

外国では子供も一個人であるという個人意識と問題意識の高さに比例して、

子供自らが虐待を告発し、告発するという攻撃よりも、主体的に自らの人生を総括しようとして書かれる無名人の個人伝記、有名人の著書、

専門家の分析、フィクションノンフィクション問わず数多くある。

当時タブーだった児童虐待を精神分析の場でクローズアップし、児童虐待の犠牲者としてのアドルフ・ヒトラーを精神分析したアリス・ミラー「魂の殺人」、

フロイト初の精神分裂病患者で、精神分裂病のモデルケースとして記録された発狂した元裁判官の記録を、

大戦前のドイツにファシズムの下地を作ったかもしれないある高名な教育学者の父の子として(もうひとりの子供は自殺)捉え直し、

フロイトの分析を批判しつつ精神分析し、アリス・ミラーが「魂の殺人」を書くきっかけになった、モートン・シャッツマンの「魂の殺害者」、

8歳から性虐待を受け13歳で売春婦として生き、7人もの男性を殺害して全米から「モンスター」と呼ばれ処刑されたアイリーン、

場当たり的に4人をも冷血に殺害した二人の青年の影にある児童虐待を抉り、

ノンフィクション・ノベルというジャンルを確立したトルーマン・カポーティの「冷血」、

世界を震撼させた11歳の子供二人による子供殺し、イギリスで起きた「マリー・ベル事件」を、「記憶を消す子供たち」の著者、

脳神経学者レノア・テアが追い、マリー・ベルの成長後に取材、壮絶な虐待の過去を暴いた「魂の叫び」、

「アメリカ史上最悪の虐待」といわれた虐待を母親から受けたデイヴ・ペルザー著「Itと呼ばれた子」、

アメリカの歪みを一身に背負う子供たちの、貧困、虐待、暴力と向き合い続ける「シーラという子」のトリイ・ヘイデン、

作家ダニエル・キイスによる多重人格者のノンフィクション「24人のビリー・ミリガン」、

リチャード・ダンブロジオ「ローラ、叫んでごらん」、マーシャ・キャメロン「ブロークン・チャイルド」など。

アメリカには、犯罪を犯して収監された者を対象に、アリス・ミラーの思想を基に「子ども時代を剥奪された者の文化」を見つめ直し、

「生き直すための場」として活動する民間団体「アミティ」などがあり、再犯率の減少に効果を挙げている。

日本で声を上げた被虐待者の声には、私も十代のときに手紙を書いて送った「日本一醜い親への手紙」など(白と黒の黒い方)。

個人的な経験、心理的経過が一番似ていると思ったのは、

「AC(アダルトチルドレン(死語))」であることを描いた、永山翔子氏の「家庭という名の収容所 そして心の闘い」など。



転落、犯罪、子供が最初に人間性を、家庭によって、社会によって、創られ損われ、壊される社会的リスクは、果てしなく大きいはずだ。

破壊と憎悪は連鎖する。

家庭から社会へ、社会から家庭へ、親から子へ、子供から子供へ、強者から弱者へ、弱者から弱者へ。

誰かがどこかで止めないと、憎悪の波紋は終わらない。

人間が最初に破壊と暴力に触れる温床は、一番ミクロな全体主義社会である、家庭の場だ。

子供を取り巻く親と家庭とその周りの社会の在り方は、子供の命と子供の未来と、子供の周りの社会の未来を左右し、時に破壊する。

子供のというより人間の本質として、人間は受け取ったものを還元し、学んだ通りに行動する。

愛を受け取った人は愛を還元し、憎悪と破壊を学んだ人は、憎悪と破壊を行動する。

大人から、社会の守り手から零れ落ちた子供の声、子供の痛み、子供の魂の末路は、結局、社会の闇に吹き溜まり、闇を色濃くしていく。

傷つき、血を流す心の声から目を背けられるからこそ、彼らは「モンスター」になっていく。

家庭が子供にする一番残酷なことは、その人間の本来性を歪曲し、壊し、捏造し、洗脳し、自己が本来の自己を、本来の声を喪わせることにある。

本来性を失くした人間は、未来にわたって内的な声を喪失し、暗い森に迷い込む。

今、世界が、大人が、傷ついた子供の「たすけて」の声なき心の声にどんな声を返せるかは、

未来の大人が未来の子供にどんな返答を返されるかを決める。

彼らは「子供」なのではなく、「未来の大人」であり、「未来の社会」。

日本では圧倒的にこの面の声は小さく、闇はまだ祓われておらず、声はまだ塞がれている。

「外国に比べて日本は伝統的に、親から子への虐待や、性的虐待はない」と精神科医の同盟が公言し、

80年代に国連から「日本の子供たちは社会的ネグレクトにあっている」と警告され、

事実上、社会の透明な視線の中で、親の子供の身売り、子捨て、虐待、貧困、子供の性の売買が行われ、子供の痛みを物語化しえない、

「子供の幸福感・自尊心」が世界でもっとも低い位置に近い日本。

「長いものに巻かれろ」「臭いものに蓋」、儒教、忠孝精神、日本文化の中では子供の立場で親を告発、問題視する立場は、

完全にマイノリティの立場なのかもしれない。

日本ではどうしても社会的認知を得られず、社会活動も起こらず、治療も個人で解決を模索するしかない。

制度も社会も対策もなく、虐待のボーダーラインもわからずタブーに踏み込めず、人の意識自体が因習に閉ざされる。

「親が子供にすることはすべて愛に還元される、されなければならない」 という無根拠に与える親の全能性の幻想。

親は当たり前に子供を愛し、子供は当たり前に親に従う、無根拠な因習的概念に親子関係を閉じ込める。

孤立した親子が閉じ込められる密室は、家庭の中ではなく、密閉した社会通念の中なのだろう。



「ハッピーバースデー」の主人公あすかは、この社会的因習の意識を自覚し脱却し、

「ママだと思うから期待しちゃうんだよね。もうママとは呼ばない。静代さんと呼ぶことにする。」

「わたしはママの記憶の一部ではないの。ママが好きにしていい存在ではないの。

ママの目で見ないで、わたしを静代さんの目で見て。」と宣言する。

「親」という存在を一個の人間として見るのではなく、親という立場に無根拠な絶対性を一存することによる社会の責任回避、

親と子供の間の依存と甘えの意識のねじれを捉え、あすかが「わたしはわたしとして生きる。」

という決意とともに断ち切った髪のように断ち切る。

終に得られなかった「親」という幻想への哀しい決別。

あすかの心が祖父母の心の温もりに溶かされ、雪解け水のように生命が満ちるとき、

少女は今まで聞こえなかった様々な声を心に響かせ、砂漠に水が広がっていくように、少女の成長は母親を成長させ、

母親の心の闇に閉じ込められた声を自由に解き放ち、周囲の人間に成長と変化の波紋を起こしていく。

どんなに傷つけられても、声も命も奪われても、子供には親しかいない。

子供の親への愛は、山よりも高く、海よりも親の愛よりも深い。

子供は自らを傷つけてでも、親の幸せを願い、親を愛する。

子供の信頼を壊すことは簡単にできても、子供の信頼を築くことはできない大人が子供に甘えている世界。

この本が描いていることは、親子関係の問題だけではなく、あすかという名前のひとりの少女の声を奪い、押しつぶす、

親と親を取り巻く社会の圧力の中で、どのようにして一個人のあすかとして生きえるのか、在りえるのか、

あすかがあすかの声を取り戻せるのか、を描いているのだと思う。

人がその人自身であるものを押しつぶすものは何か、その中で自分を失うとはどういうことか、失わないとはどういうことか、

喪わないためにどうすればいいのか、わたしが私としてそこにいるためには、自分の声で生きていくには。

青木和雄さんは、人間の一番純粋な子供の心を通して、生きることの困難さにさらされる日本で、

声を閉じ込められ、闘い、散っていく命に向かって、熱く、激しく、優しく、「HAPPY BIRTHDAY」を歌っているのだと思う。



心の声を誰にも受け止められず、耳を塞がれた子供は、自分が今ここにいるのか曖昧になり、自分の心の本当の声を自分の耳から塞ぎ、

世間や親の声に合わせて歪曲し、否定することを強いられ、やがて自分の声が遠くなり、聞こえなくなり、心の声が導くはずの生きる指針を喪う。

閉じ込められた心の声は暴発し、自己や他者を傷つける。

被虐待者の心理状況は、ベトナム戦争の帰還兵の「PTSD(心的外傷)症状」に似ていることから注目され研究されだしたらしい。

国が掲げる正義という名で行われる殺戮、親が掲げる愛という名で行われる虐待、どちらも似ている。

兵士も子供も、自分の主体性を超えた、自分の外に掲げられた他者の「正義」の声によって心の声を塞がれ、閉じ込められ、

歪められ、変質し、本来性を喪失していく。

子供は、一度ある家庭に生まれると、自分の命を危ぶむ闘いを闘わねばならず、自分を内側から否定する声に圧倒される人生を闘わなければならない。

子供にとって、家庭が戦場になる。

そして、命を失い、心を失い、声を失っていく。

そして、戦場の家庭を包み込むものは、それなりの社会と世界だ。

青木氏は常に、家庭という名の戦場が、今の社会と世界に位置づけられている意味を捉えていると思う。



たぶん、世界で一番迫害されている声は、誰からも耳を塞がれた子供の声だ。

世界で一番忌まれている闇の中の声に、卑小で偉大な人間の根源性の物語、人間の破壊の果てと果てしない生命の物語が隠れていると思う。

痛みや破壊に対処する心の創造、地獄の果てのような人間の中の愛と創造性、死から再び芽吹く生命。

人の心には、宇宙の破壊と宇宙創造の物語が同時に存在すると思う。

こんなにも救いようがなくなれる人間の絶望と、死からも再生しうる生。

人間の愚かさと破壊性は果てしなく、そして、再生の希望も果てしないのかもしれない。

そしてそんな奇跡は、何も特別ではなく、何も賞賛されない、親としての普通の愛情があれば起こるものだ。

・・・

ロージアズ博士は、相手をありのままに受け入れるという関係を一貫して持続させるならば、

相手は、知的な力に頼る反応の仕方から、それを乗り越えた人間全有機体反応に生きるように次第になると信じていたようである。

彼の意見では、人は誰かから理解され受容されることによって、初めて自己理解をなしうるというのである。

人は、支障を感じない条件下において、自発性を発動させるようになるからである。

人は現在内面に経験しているものをそのまま受け入れる時にその人は、新たな変化を起こすものである、

彼は、この内面の経験過程を意識化することを、自己理解と表現した。

彼は、よりよい生活とは、ある状態ではなく、個人が自己の経験の過程に生きることである、と見ている。

その特質は第一に、自己自身の経験にいっそう率直になるということにある。

よい生活とは、自己防衛の極から自己の経験を率直に意識する方向に進むことである。

自己自身に傾聴することができるように、自己の内部に何が進行しているか自覚できるようになることである。

そのことで、よりいっそう自己の感情に主体的に生きるようになるからである。



彼は、人間そのものの性質の中に、最も根本的な動きとして、人間は可能性を実現させるために動く性質があると思われる、というのである。

彼は、カウンセリングの目標を、人が真の意味で自由な個人になることの援助に置いているようである。

個人となるとは、他人に支配されての生活ではなく、本来的、有機体的反応に生きることを意味している。

そうすると、個人として、個性的に生きるということは、本来的人間的に生きるということで、人間の普遍性に生きることにもなるのである。

さきに、ひとりの道は、このひとりが歩くより他に誰も歩きようがないといったが、さらにここで気がつくことは、

この一人の道は、この一人が最も歩きたがっている唯一の道ではなかろうか、ということである。

誰しも、自分の道を自分の足で歩き、そして確かめたがっているのではなかろうか。

言い換えれば、一人で在るより他に在りようのない在り方のところで在る(自己一致)― これが人間個人の心の底からの願いなのではなかろうか。

かけがえのない"私"とは、自分によって自分が歩いてゆくより他に歩きようがないし在り様がないのである。

"私"は"私"の在り方、そういう在り方しか在りようのない"私"なのである。

人間尊重は、何もむやみに他を尊重するんじゃなくして、自分がまず、自分を重んずるということから歩みださなければならぬということ、

すなわち、まずそのものの自由性、自主性、独創性を発揮していくように手始めなければならぬ。



信は、私の私への出会いである。

信は、価値の創造ではない、在るものを在るがままに、領納することであり、いいかえれば、人間に本来備わっているところを体で発見することであろうか。

思議や計らいを超えて、いや、包んで、私の本具の用はそこに私をそのまま開示するのである。

私のそのままが開示されるところが信であり、それは、私の私への出会いである。

自分が自分でありたい、しかしそうならないところに、人間は苦しみ、悩んでいる。

自分が自分で在りたいといったのは、何もふたつの自分がそこに在るのではない。

正しくはひとつである。

いや、ひとつになることこそ、願いなのである。

ロージアズのありのままは、"透明で真実な人間"であり、"自由"への願いを、ひたむきに内包しているのである。

自分が自分の主人公になれるところである。

自由である。

そして、人間の尊厳性の本質は、この自由に根ざしているのである。

人間の自重、ここでロージアズのクライアントがしばしばセラピーの中で述べるように、その人間は、

「ありのままの自分になってゆく」のである。

・・・

直接的な知識の秘密は感性である。

我々が感ずるのは石や木、肉や骨だけではない。

我々は耳を通して、水の流れる音や木の葉の囁きなどを知るばかりではなく、魂のこもった愛と知恵の音をも知る。

我々は、鏡の表面や色の幻影を見るばかりではなく、人間の眼光をも見透す。

つまり外的なものばかりではなく内的なものも、肉体ばかりでなく精神も、物ばかりではなく自我も感覚の対象である―――

普遍的な感覚は悟性であり、普遍的な感性は知性である。

最も低い感覚、嗅覚や味覚でさえも、人間にあっては精神的な作用、科学的な作用を高められるのである。

人間はその生存を感性にのみ負うている。

理性、精神は書物を作るが、人間を作らない。

真の哲学は書物をではなく、人間を作ることに在る。

人間は、感官によってのみ、自分自身に与えることができる。

ルードヴィヒ・A・フォイエルバッハ

・・・

このような家族主義道徳論は、もともとは徳川封建制下において確立された武士階級の道徳として自覚されたものである。

しかしやがてそれは、明治絶対制官僚国家の権力体制を合理化するための理論的武器として利用され、

古来の日本家族の伝統的な淳風美俗がこうであるとして公認され強要されるようになった。

権力関係を親子の愛情関係に似せた制度とするために利用された。

儒教の孝は、その後も、労働争議や小作争議を鎮圧し、国民の近代的な権利意識の覚醒を抑えるために、繰り返し繰り返し強調された。

孝によって権利関係の実態から国民の目をそらせ、忠によって親子間の自然な情愛を押しつぶすような、

まさに歴史に逆行する教が、教育や法律や政治などの国家機能を通じて、国民に説教され強制されていったのである。

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「もう少し濃度を薄めるべきだった作品。 人が人を認め、信じ、受け止めることの尊さを伝えたい作者の思いは...」 by mind


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